November 23, 2017

またあの時期がやってくる!

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日本軍真珠湾攻撃の第一号写真、真珠湾内のフォード・アイランド。水飛沫の上がっている右上に小さく日本機の姿が!
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左上部に見えるのが、現在のフォード・アイランド。
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当時FBIはハワイにおける日本の諜報活動をひそかに追っていた。そのFBIが入っていたデリングハム交通社ビル。
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現在もアロハタワーの向かいにある、、。
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当時のホノルル警察。ここのバーンズ警部がFBIと協力して日本のスパイを追っていた。
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ビルは現在もダウンタウン・べセルとマーチャントの角にあります。
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日本料亭・春潮楼、現在は夏の家。日本の諜報員がここから真珠湾を望遠鏡で偵察していた。
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日本領事館に書記官として潜入していたその諜報員・森村正、本名・吉川猛夫氏。
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その20年後の1961年に再びハワイを訪れ、感慨深げにオアフ島を見る吉川猛夫氏。
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その森村正が度々現れたと言われている、ダウンタウンのクラブ・ハバハバ。
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これもビルディングは現在もダウンタウン・ホテルストリートに残っている!
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現在もある横浜正金銀行ビル。当時の日系一世はここから日本に仕送りをしている者もいた。


さて今年も「サンクス・ギビング・デー」がやって来た。
この日を境にハワイは一挙にホリデー・ムードになる。
皆仕事なんか真面目にしやしない。
ってのはちょっとオーバーかも知れないけど、
皆さんそんなムードでいっぱいだ。

そうこうするうちに12月。
12月になると我々日本人としてどうしても忘れられないのが、
12月7日の日本軍による真珠湾攻撃。
1941年当時ハワイの全人口が40万人、
そのうち15万人程が日系人だったのだから、
日本軍の真珠湾攻撃がいかに彼らにとってショックだった事か、、。

健太は1941年8月生まれ。
まさに真珠湾攻撃の3ヵ月ちょっと前に生まれている。
つまり健太は戦前派、、ってことだ。
いずれにしても何の因果か、
こうして真珠湾攻撃のあったハワイで今健太は生活しているので、
どうしても当時の事が気になって仕方がない。
ハワイ生活かれこれ50年、
折りあるごとにそんな文献を読んでは、
当時のハワイの様子をを思い浮かべて興奮している。

そうこうするうちに、
どうしても、
当時の模様をふんだんに織り込んだ小説が書きたくなって、
幾つか書いてきた。
面白く書けたどうか分からないけど(自分では面白いと思っている!)、
何としてもそのうちの一つを近いちに発表したいと思っています!

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April 23, 2017

だっちゅうのに!

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フラの祭典メリー・モナークが開催されている。
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女性フラは笑顔が美しい!
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力強い男性のフラ。
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ハワイ報知社に本を買いに行って来ました。
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買ったのはこの本、、。
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そういえば最近この本も入手できた。
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今回は3日間でこれ、頑張りました!
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今日は室内練習場へ行ってみました。ビデオでスイングも撮れます!

ハワイに日本人が初めて移民してきたのが1868年、
つまり明治元年今から約150年前の事。
横浜港からサイオト号と言う船に乗て150人がやって来たのだ。
以来官約移民、私移民と、
大量の日本人移民が1924年に移民禁止令が出されるまでやってきた。
そして1934年にはハワイにおける日本人・日系人の人口は14万8千人に達している。
当時のハワイ全人口が37万9千人だったことからハワイの4割近くを、
日本人・日系人が占めていたことになる。
また近年においては毎年150万人に上る日本人観光客がハワイに来ている。
それだけハワイと日本は切っても切れない関係になっているのだ。

だっちゅうのに(古いネ、、涙)、
それ程ハワイと日本は切っても切れない間だと言うのに、
ハワイ日系人に関する本が少なすぎる!
健太のハワイ生活はかれこれ50年近くなる。
その間、
機会が有る度にそうした書物を漁って来たんだけど、
手元にあるのは10冊以下だ。
もっともっとハワイの日系人に関して知りたいけど、
その術が極限られている。
(ハワイ大学のマイクロ・フィルムに収められている、
ハワイ・日系新聞のバックナンバーを時々閲覧に行っています)。

そんな意味で今回贖った写真の、
「ハワイ日系人・パイオニアズ、100の物語」はとても貴重なものだ。
そういえば最近、
ハワイ・タイムス(既に廃刊になっているハワイの日系紙)の記者・平井隆三氏が書いた、
「駆け出し記者50年」も入手した。
ハワイの日系紙・記者の著したものなのでとても内容は正確で(だと思う)、
真珠湾攻撃(1941年)の少し前から1980年までのハワイの様子が手に取るようにわかって、
実に興味深いものだった。

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October 06, 2016

ハワイは誰の物?

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今回は赤とんぼならず、「黄色トンボ」でした!
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椰子の木にバナナの木、ここは間違いなくハワイです。
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久しぶりに「コオラウ・ゴルフ・コース」へ行ってきました。Imgp1152
以前は「みなみ」という名前で、さすが日本人が作ったコース、クラブハウスも超豪華。
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コオラウ、1番ホール・フェアウェー。パリ・ゴルフ・コースの隣なので景色がちょっと似ているかな、、、。恐らくアメリカ1、2を争う難コースです。
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一方、隣のパリ・ゴルフコースでは子豚がまた生まれた模様!
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グリーン上を這っていたテントウムシ。
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とんま、ナイスショット!
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アラモアナSC、エヴァ・ウィングの「天ぷら一代」に行ってきました。
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店内の模様!
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店の雰囲気の割にはそれ程高くありません。
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手前の半月型が「椰子の芽の天ぷら」です。美味しい、そして珍しい!
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デザートは、カボチャぜんざい。これも美味しかった~!
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ビールはバド・ライト。
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さっきキング・ストリートに出た虹!


およそ8億ドルを投じてカポレイに建設された140万平方フィートのショッピングセンター、
カ・マカナ・アリイの開発業者デパートロ・デブロップメントが、
先週報道関係者などを招いてツアー(見学)を行った。
カ・マカナ・アリイでは、
9月28日最初のハンプトン・イン&スイートパイ・ヒルトンがオープン、
30日にはカリフォルニア・ピザキッチンの州内6店目が開店した。
同社はこの5年を目安に州内のレストランを2倍以上に広げる計画がある。

既にアンカーテナントのメーシーズは9月1日から営業しており、
21日にはリクライニングシートの豪華映画館、コンソリデイテッド・シアター、
H&M、フォエバー21、オールドネービー等がオープンする。
出店予定の100店程の店舗のうち、
少なくとも半数が10月中に営業を開始し、
残りは2017年中に順次オープンする。

地主のハワイアン・ホームランド局(DHHL)とのリース契約は65年間、
この間に10億ドルの収益が見込まれている。
DHHLは先住ハワイアンの住宅開発のサポートが可能になると期待している。

* 記事は一部ホノルル・スター・ボルテン紙より借用しました。

さてここから健太の意見!

カメハメハ大王に始まったハワイ王国も、
1894年8代王のリリウォカラニ女王で終焉を迎えた。
リリウォカラニ女王は7代の王・カラカウアの妹である。
リリウォカラニ女王は当時、
日に日にアメリカ人によって牛耳られて行く王国にいらだちを見せた。
そこで彼女は兄カラカウアが制定した憲法を廃止して、
「立憲王政の復古」を実現しようとしたのだ。
そこで1892年、
イオラニ宮殿に取り巻きの議員や外交官などを集め、
白人の参政権を制限して、
上院(貴族院)の任命権を女王に帰属させるという内容の憲法改正を宣言した。

しかし既に白人中心になってしまった内閣がそんなものに署名をするわけがない。
結局白人たちは、
1893年に臨時政府を樹立して女王とその内閣に不信任を突きつけ、
ここに王制を排することを宣言する。
臨時政府と共謀したアメリカはホノルル港に寄港していたボストン号から、
「在留米人の安全を確保する!」と言う名目で強大な陸軍を上陸させた。
そうした現実を目前に、
リリウォカラニ女王は臨時政府に歯向かうことは不可能と悟り、
臨時政府の要求をやむなく受け入れることになる。
そして遂にハワイ王国は幕を閉じることを余儀なくされ、
1894年、ドールを大統領とした「ハワイ共和国」が生まれた。

結局ハワイは、
アメリカの武力によって乗っ取られてしまったのだ。
そんな歴史を考えれば、
このDHHLによる先住ハワイアンの住宅サポートなど、
ハワイアンたちにとっては、
まだまだ手ぬるいものとして受け止められているに違いない。


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December 10, 2015

クリスマス・プレゼント!

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ゴルフ場に隣接する家。こういう家からの景色ってなかなか良いのだ!
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シャッターを押した覚えのない画像、、(汗)。
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HCC 17番ティー・グランドから18番のフェアウェーを、、。
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17番パー3のグリーン。とんまのちょっと長いパーパット、、。
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おや?メンバーズ・グリルに、どこかでお目にかかったことのある美男美女が!!
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健太たちは遅めのランチをメンバーズ・グリルにて!とんまのオーダーした「コブ・サラダ」。
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健太は「アヒポキ」を!
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食事中に知り合いの「アロハ石油」の社長さんがいてクリスマス・プレゼントをくれた。ホクレア号のマグカップ、これはめったに手に入らないお宝だ!
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近代計器を一切使わず、星の動きや海流、波などの自然の動きだけを頼りに航海を続けているハワイの伝統航海カヌー、ホクレア号!
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この前「ゆぶぶさん」から頂いたゴルフなどに良いと言われている指付き靴下!靴下の底にはグラブ出来るようにゴム(?)のストッパーが付いている。とんまが履いて足でじゃんけんをしてくれた。左がグーで右がパーなのです、、(笑)!


ホクレア号は、
古代のポリネシアで用いられていた木造船(航海カヌー、Voyaging Canoe)のレプリカだ。
もともと「ホクレア」とは、
しかい座の1等星「アークトゥルス」のことで、
この星を頼りにポリネシア人達は彼ら独自の航法でハワイへ移住したといわれている。


写真のホクレア号は、
1975年にアメリカ合衆国建国200周年記念事業の一つとして建造されたものである。
建造に際しては、
ニュージーランドの医師でリモート・オセアニア海域の伝統的航海技術研究の第一人者でもあったデヴィッド・ルイス、
ハワイ大学で同じくリモート・オセアニア海域の伝統的航海技術を研究していたベン・フィニー、
中国系ハワイ人(日系という説もある)のイラストレーターで郷土史研究家でもあったハーブ・カワイヌイ・カネ、カヌー研究家のトミー・ホームズらが中心となった。

建造直後からハワイ先住民の伝統文化復興運動のシンボルとなっているが、
アオテアロア(ニュージーランド)のマオリやクック諸島、
仏領ポリネシア、ミクロネシア連邦、
日本などからも、航海カヌー操船技術の研修生を受け入れている。
また1995年以降はハワイの子供たちの教育プログラムにも頻繁に利用されて、
現在のホクレア号の中心的活動になっており、
ハワイ州のState Treasure(州の宝)にも認定されている。

これまでの間にホクレア号は地球4周半分の距離を航海している。


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August 08, 2015

ワイキキ殺人事件

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ワイキキ・ロス!
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モアナ・サーフライダー・ホテル(旧・モアナ・ホテル)。健太の小説で「ワイキキ殺人事件」が起きたところです、、、(笑)!
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ワイキキをホロホロするワヒネ達!
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交番あたりから見たワイキキビーチ。
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お馴染み、観光カタマラン!
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今日のワイキキはまた格別暑い!
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今日のサウスの波は1~3フィートだ。
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自撮り棒お貸ししましょうか~、、。
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残念!波がいまいちだね、、。
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平和そのもののワイキキ・ビーチです!
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ビキニまで暑さで焼けてるようだね!
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防波堤の少年たち、バンザ~イ!
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このビキニ、ちょっと小さかったかしら、、、、。
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今日の「ドカ~ン!」です。
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嬉しいな~、笑顔でしっかりV サインをくれました!
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ハイヤットのブランドショップ!

<健太の小説のあらすじ>

さて前回まで「黒船から真珠湾攻撃まで」と題して、
日本が太平洋戦争に至る裏話のようなものをアップしてきた。
実はその全ての文章は(含・ペレの伝説)、
健太が書いている小説の中からコピペしたものだ。
さて、その健太の小説なるものは一体どんな話なのだろうか、、。
ここに簡単な「梗概」を載せさせて頂きましょう。

「ハパジャパ・ワイキキ殺人事件」

1941年、ハワイ日系二世城間(ぐしくま)慎太郎は、
ハワイ大学在学中ホノルルの邦字新聞社「イカリ・タイムス」に見習い記者として雇われ、
先輩記者の里見蘭に付いて研修をすることになった。
里見蘭は父親が白人で母親が日本人のハパジャパ(ハーフ・ジャパニーズ)。
ハーバード大学出身でニューヨークの「ヘラルド・トレビューン紙」に勤務していたが、
昨年母親が病で倒れて以来ハワイに戻っている。 

1941年10月XX日、
ワイキキの「モアナ・ホテル」で自殺を装った密室殺人が起きた。
「ワイキキ殺人事件」だ。
殺されたのは軍事ジャーナリストの「へクター・バイウォーター」で、
ニューヨークの「ヘラルド・トレビューン紙」時代世話になった里見蘭の恩師ともいうべき男だった。

ヘクターは著名な日米軍事ジャーナリストで、
ニューヨークでは彼の必要とする日本語文献の英訳をほぼ全面的に蘭が引き受けていた。
そこで恐らくそれにまつわる事件に違いないと推理した蘭と慎太郎は、
ホノルル警察のボトル警部やマイク刑事と協力しながら行動を開始した。
と同時に、
最近蘭の自宅近辺の真珠湾に頻繁に現れるホノルル日本領事館・一等書記官、
森村正の行動に疑問を持ち始める。
 
そんなある夜蘭が三人の暴漢に襲われた。
危機を救ったのは米海軍上級秘密工作員(諜報員)のジョージだった。
そこで蘭は意外な事実、
ジョージが森村を追っていることを知る。
ジョージは森村とその一行3人がオアフ島遊覧飛行に出かけることを突き止めた。
〈森村め、真珠湾の航空写真を撮る気だな、、、〉
そう睨んだジョージは三人を監視するが、
飛行中パイロットが意識不明に陥ってしまう。
あわや事故かと思われたが、
森村一行の一人中島と呼ばれる男が操縦を代って事なきを得る。
実は米情報部では日本の暗号電文を解読していて、
中島は偽名で日本海軍の大物であることをジョージは知っていた。
 
慎太郎と同じイカリタイムスの見習い記者岡本も森村正の尾行を始めるが、
ホノルル警察のバーンズ刑事が現在FBI付きの特別諜報局長をしていて、
同様に森村を尾行している事を知る。
FBIが森村を追っている理由を探ろうと、
FBIホノルル支局長であるシーバスの部屋に盗聴器を仕掛けた蘭たちは、
近々日本軍が真珠湾を奇襲してくるという仰天の情報を得る。
 
一方、蘭を襲った犯人を突き止めようとしていたマイク刑事が水死体として発見された。
しかしその事件をきっかけに蘭を襲った犯人像が微かに浮かび上がって来た。
それは「ワイキキ殺人事件の犯人と同一人物であるに違いない」、
そう推理した蘭たちだったが、
予想に反して新たな人物が「ワイキキ殺人事件」の犯人として逮捕された。

そして遂に12月7日早朝、
日本軍が真珠湾に猛攻撃を仕掛けて来た。
その攻撃のさなか、
必要に迫られてある白人海軍将校を拉致した蘭と慎太郎は、
パール・シティに向かう途中検問に引っかかってしまう。
万事休すと思われたその時、二人を救ったのは意外な人物だった。
 

解説:

 黒船から真珠湾攻撃まで No. 3 では、
ヘクター・バイウォーターはロンドンの郊外の自宅マンションで死亡したということになっているが、
その説が甚だ心もとない。
ずっと後になって死亡したという説もある。
そこで、彼が殺されたのはロンドンではなくハワイだったら、、
ということを思いついてこれを書いてみる気になりました、、(笑)。


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August 05, 2015

黒船から真珠湾攻撃まで No. 5

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今日のオアフ島はトロピカル・ストームがやってきて午前中は大雨!そんな訳でビーチも人出が少ない。
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天気が良くないので光量が極端に少ないね、、。
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今日の「ドカ~ン!」かと思ったら、もうすぐお母さんなんですね!
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あ~、頭が痛い!
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うつ伏せ軍団。
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溺れてます、誰か助けて~っ!
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スマホばっかり夢中になっちゃって、あたしが溺れても知らん顔なんだもん、、。
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そんなに大きな荷物、どうするの?
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結構波が荒いけど、やっぱり行くの?
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6+?

今回は主にアメリカ側の資料を基に、、、。

 1941年11月。
ワシントンDCの街並みもすっかり紅葉し始め、
ポトマック川両岸の秋景色はそこはかとなく郷愁を誘う。
私はこの地方の短い秋が大のお気に入りではあるが、
今年は何故かそれらすべてが淋しさを湛えて映って見える。
  
私、コーデル・ハルが(米国務長官)野村吉三郎日本大使と初めて会ったのは今年の2月21日だった。
彼は日米の会談をあまりセンセーショナルに扱われないように、
国務省より私の滞在するウォードマン・パーク・ホテルを訪れることが多かった。
日頃の彼の態度を見る限り、
彼は心から日米の平和を願っていることが感じ取れた。
しかし既に40回以上の会談がもたれているものの、
5月12日に提出された提案を受け取って以来、
日本側は一貫してその主張を曲げようとせず、
そこからは一条の光すら窺うことは出来なかった。
ようするに日本ははなっから一歩も歩み寄ろうとする気はなかったのだ。

その内容は太平洋地域を日米両国で共同支配して、
日本がその90%を支配しようと言うもので、
他国の権利・利益を全く無視したものだった。
だがこれを最初から断われば、
日米間の将来を根本的に討議する唯一の機会を断ってしまう事になるので、
そこを先ず話の出発点とする事とにした。
 
 しかしそうした我々の態度を見た日本側には、
妥協的な提案で互いに歩み寄ろうとする姿勢は一切なく、
それどころか更なる野望を盛り込んだ一方的な内容を提示して来た。
アメリカとしては近衛内閣には何の期待もしていなかったが、
10月18日に成立した東条内閣には更に期待が持てなかった。
どちらの内閣も同様に日米協定を結ぶ事を焦っていたが、
近衛は日米協定を結ぶ事で自己政権の延命を考えていた。
一方、東条の考えは協定が破綻すれば即戦争を起こす腹積りであることは、
手元の情報により明明白白であった。
我々は多くの暗号電文を解読している。
  
 そして遂に、11月5日の東郷茂徳外相から野村に宛てられた電報で、
我々は次のような内容のものを解読した。
「諸々の理由により、協定調印を今月二十五日までに完了せよ。
困難ではあろうが現時点では他に方法は考えられない。
この点を深く理解し、最大の努力をされたし」
この電文は、日本は既に戦争への準備を完了しようとしていて、
25日までに我々アメリカ側が要求に応じなければ、
即日米戦争に突入すると言う事を意味している。
11月7日、私はルーズベルト大統領に次のようにレポートした。
「情勢は極めて逼迫している。
我々はいつ何処で日本の軍事攻撃を受けるか分からない。
常に警戒が必要である」
 
 そうした我々の内情を知らず、
野村は依然として日本の平和的提案なるのもを提示し続けて来たが、
私のデスクに積まれて行く日本の傍受電報は彼らが全く違った意図を持っていることを証明していた。
11月17日、野村に連れられて新使節来栖大使が私に会いに来た。
彼は野村には遠く及ばない器だった。
彼の言動には信頼を呼ぶものは何一つ感じない。
私はこの男を法螺吹きだと思った。
第一我々は暗号電文の解読により来栖の役目を最初から承知していた。
あらゆる手段を用いて我々を巧みに籠絡し、アメリカに日本側の条件を呑ませること。
そしてそれが成功しなかった場合、
日本側の攻撃準備が整うまで交渉を長引かせておくことだった。
 11月21日、
来栖が一人で私のところに来た。
私は「平和的解決に何か良いアイデアはないか」と彼に尋ねた。
来栖は何もないと答えた。
その一言を聞いて、私は日本の攻撃準備が整ったと悟った。
私は日本が何時攻撃してくるか分からないと再び大統領はじめワシントンの有力者に、
より高いアージェントとして伝えた。
 
 そして11月26日遂に私は意識的に、
恐らく日本側が受諾することのできない最後通牒を、
仲間のハリー・ホワイトやアーサー・マッカラムに頼んで作成してもらい、
彼らに突き付けた。
中国との戦争を放棄すること、
日独伊三国同盟を破棄すること、
大東亜共栄圏と呼ばれている東南アジアのための経済計画を放棄すること、、
などを含む十ヶ条がそれだ(いわゆるハル・ノート)。
 
実は今年の1月、
私は東京のグルー大使から一通の電報を受け取っている。
それによると、
日本在住のペルー公使がグルー大使に
「日本は日米間に万が一問題が起こった場合、
総力を挙げて真珠湾を攻撃する準備をしている」
と内密に伝えてくれたと言う。
似たような情報は他からも入ってきていて、
既に何があってもおかしくない状況だ、、、。
ともあれ、
最初の一撃は彼らにやらせなければならない!

(一部ハル回顧録より)

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当時の米国務長官・コーデル・ハル著、「ハル回顧録」。

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August 01, 2015

黒船から真珠湾攻撃まで No.4

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ダウンタウン、ビショップ・ストリートとアラモアナ・ブルバードの角に現存する元・FBI の入っていたディリングハム交通社ビル。アロハ・タワーのすぐ近くだ。当時FBI ハワイ支部長のシーバスは、この2階から常に港を監視していた。
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デリングハム交通社ビルかの目の前に見えるアロハタワー!
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同じく今もまだある1940年代のホノルル警察。この3階にバーンズのいたエスピオナージ・ビューロー(諜報局)のオフィスがあった。
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日本のスパイ森村正こと「吉川猛夫」が真珠湾を偵察していた料亭・春潮楼(現夏の屋)。
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料亭・春潮楼からの景色。
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1961年、思い出のハワイに戻って真珠湾に立つ森村正こと、吉川猛夫氏。
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その吉川猛夫氏が講談社から出版した「東の風、雨」。
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真珠湾攻撃後即アリゾナキャンプに抑留されたホノルル総領事館一行。前列中央が吉川氏、後列右から2人目が喜多総領事だ。


FBIハワイ支部長ロバート・シーバス特別捜査官の任務は、
ハワイに於ける日本人の諜報活動を探る事だった。
シーバスのオフィスは、ダウンタウンのデリングハム交通社ビルにあり、
二階の彼の部屋からはアロハタワーのあるホノルル港が眼下に見渡せた。
日本艦船が入港した際乗員と接触する日本人を監視するには都合のいい場所である。
 
1941 年に入って、
日本の松岡洋右外務大臣が不用意に打電した電報を傍受したアメリカ情報部は、
ホノルル領事館にスパイが送られることを知り、
FBI 本部のフーバー長官は即 FBI ハワイ支部長のシーバスに連絡した。
シーバスは16 名の特別捜査官従えていたが、その全員が捜査に当たりたいと希望した。
しかしハワイの全人口40万人のうち日系人口が15万人、
ホノルルの街は日本人で溢れていて、
白人捜査官が下手に行動すれば目立ってしまい、
結局手も足も出なかった。
と言って日本人をFBIに雇い入れることは誇りが許さない。
FBI捜査官は全てアングロサクソン系の白人でなくてはならないのだ。

シーバスはホノルル警察と相談の結果、
警察内にエスピオナージ・ビューロー(諜報局)を設置、
風紀刑事部長のジョン・バーンズが(のちのハワイ州知事)その局長となって座ることになった。
バーンズは日系二世K・金沢、ハパジャパ(日系人ハーフ)のR・ミラー、
朝鮮系アメリカ人チュン、ハワイ系アメリカ人B・カイナの四名を部下として雇い、
万全の構えを整えた。カイナを除いた3名は全員日本語に堪能だった。
 
そんな折、
本部のフーバー長官からシーバスに電話が入った。
「何ですって長官、それはつまり、我々にこの捜査から手を引けって事ですか」
ずんぐりした体躯の持ち主で首が短く、手足が太い。
そのシーバスの受話器を握る手が微かに震えた。
「シーバス、君の気持は良く分かる。しかしここは目をつぶって、
今後の捜査は海軍情報部に任せてやってくれ。
よってこれからの細部情報は海軍情報部に優先的に流れる」
やっとこれから本格的な捜査開始と言う時だ。
どうしてもフーバーの電話には承服しかねる。
シーバスは声を荒げた。
「長官、いくら長官のお言葉と言えども、
それはあんまりだ。
私の連邦捜査官としての職業倫理はどうなるんですか」
「馬鹿な事を言うんじゃない。
連邦捜査局には翻訳家も通訳も密告者もいない。
こんな状況で、我々は日本人スパイ捜査について全責任を取るわけにはいかんのだ」
シーバスはホノルル警察の協力を得ているなど現状を説明して、
何とか説得を試みたが無駄だった。
既にルーズベルト大統領及びフーバーとの話し合いは出来ていて、
海軍情報部長ウォルター・アンダーソンがその指揮を執ることになっていた。
それは全てマッカラムの8項目実行の延長線上の行動である。

しかしシーバスはその後も一向に捜査の手を緩めようとせず、
密かに諜報活動をバーンズに命じた。
そこでバーンズが最初に当ったのは、
残留届を提出していない日本人達だった。
アメリカに滞在する外国人は毎年その残留届を移民局に提出しなければならない。
その結果たった半年の間に百人以上のスパイ、
あるいは情報提供者のリストを作る事が出来た。

シーバスはフーバー長官からそれらの者たちに手を出すことは固く禁じられていたため、
実際には彼らを深追いできずごく一部の者を徹底監視するに留めている。
シーバス自身時には日本領事館を訪れ、
それとなく探りを入れては見たが、
彼の立場としては表立ったことはそれ以上何もできない。
だが総領事の喜多長雄、
副領事の奥田乙次郎、
そして一等書記官の森村正は完全な黒で、
彼等に対してシーバスは細心の注意を払った徹底マークをバーンズに言い渡たしている。

中でも森村正は、
喜多と奥田のアウト・サイド・マンとして働くため日本から送られていることは明らかだった。
森村の名前は日本外交官名簿に登録されておらず、
役職もはっきりしていなかった。
一等書記官と言われたり秘書官と発表されたり、
整合性に欠けていることからも、
FBI は森村があの松岡洋右外務大臣が不用意に打電した電報のスパイであることは間違いないと判断した。
 
バーンズが森村正をマークし出してから半年、
彼の行動に最近変化を見るようになった。
森村がホノルル日本領事館に着任したのが1941の3月27日。
当初はかなり勢力的にこのオアフ島の軍事施設をスパイしていたが、
一時その勢いが下降線を描き、やがてだらだらと平行線となった。
そして8 月 9月になるとそのカーブは再び右肩上がりになり10月後半に入ると急上昇し始めた。
〈このカーブは一体何だろう、、〉
バーンズはどうしてもその理由を突き止めたかった。
スパイは日本の手先だ。
その手先の変化はそのまま日本の変化と考えられる。
つまり日米間の何かがその曲線を現しているにちがいない!

こうして森村正を徹底監視していたFBI だったが、森村自身は全くそれに気が付かなかったらしい。
ここに戦後森村が残した「東の風、雨」と言う著書があるが、
「私のスパイ活動はアメリカ側に全く察知されず任務を遂行した!」と記している。
命がけで任務にあたった森村氏には大変申し訳ないが、
なんとも滑稽な話に思えてならない。

その頃ワシントンでは、
大使の野村吉三郎とコーデル・ハル・アメリカ国務長官の会談が頻繁に行われていた。
アメリカの国力をいやと言うほど知り尽くす野村は、
何としても日米戦争を阻止したかった、、のだが、、。

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July 29, 2015

黒船から真珠湾攻撃まで No. 3

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街角風景。アラモアナ通り、カカアコ周辺。
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今日の波は2~4フィート!
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良い波のわりにサーファーが少なかったね、、。
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今日の「ドカ~ン」!
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さあ、そろそろ行こうか、、。
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アラモアナ・ビーチって時々素敵な貝殻が落ちてるのよ!
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あらイヤダッ!
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たまにはイケメンをどうぞ~!
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確かにブラを外したほうが気持ちいいだろうね、、。
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アラモアナ・ビーチに来たらやっぱりこの景色は撮りたい!
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今日はパリで水曜ゴルフ会!
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今日もすっかり慣れた豚君たちから大歓迎されました、、(笑)!
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雨の多いパリ・ゴルフ・コースだけど今日は最高の天気だった。
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コウラウ山脈が美しい!
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タメのきいたケニー君のドライバーショット!しかし今日は肩の痛かった健太が頑張って86点、優勝でした。向こうのほうに見えるのがクアロア辺りだ。

さて今日も前回の続きで、
健太の小説の中から一部を紹介したい。


1940年8月17日、
ロンドン郊外のアパートの1室で1人の男が死んだ。
不可解な死に方ではあったが警察は解剖をせず、病死として片付けた。
男の名前は「ヘクター・バイウォーター」。
ヘクター・バイウォーターは軍事評論家で、
日米の緊迫する情勢から両国の軍事情報を徹底して分析していた。
その結果いずれ日米間で一戦があると予想、
そのシュミレーション・ストーリーを数冊著わしている。

そうしたヘクター・バイウォーターの日本の軍事情報源は、
ロイター通信東京支局の記者メルヴィル・コックスだったが、
実はそのメルヴィル・コックスがヘクターの死ぬ19日前、
憲兵隊司令部の三階の窓から飛び下りて自殺した。
スパイ容疑で取り調べ中の出来事だった。
遺体を引き取ったメルビルの家族の話では、
メルビルの体にはたくさんの注射針の跡があったと言う。
どう考えてもそれは自殺を装った他殺としか考えられないとの家族の話だった。

ここで一つの仮説が生まれる。
この2人の存在が日本軍にとって何か不都合なことがあって、
憲兵たちによって葬り去られたのではないか、、、。

当時ヘクター・バイウォーターはすでに日本に於いても超一流の軍事ジャーナリストとして評価されていた。
1921年に就筆された「太平洋の海軍力」は、
「太平洋海権論」と言う邦題で日本でも出版され、
海軍将校に幅広く配布された。
その後海軍兵学校や海軍大学に於いて学生の必読書にも指定されている。

この「太平洋海権論」が日本海軍の面々を奮い立たせた最大の要因は、
日本の勝利を約束するスリルにあふれる作戦がそこに具体的に提示されていたことにある。
スピーディーかつアグレッシブに南方侵攻を繰り返すことで、
日本は太平洋に於いて広大な帝国を築く事が出来ると主張しているのだ。
一方、「1931年から1932年までの日米軍事行動の歴史」と言う副題のついた第二作「太平洋大戦争」は、
更に評価の高いものとなった。
小説の体裁は取っているもののもし日米戦わばこうなるだろうと、
両国に於ける個々の実戦力を将棋のコマのように使って、
日米決戦のシュミレーション・ストーリーに仕上げている。
そしてこの著書の中では、
一馬身リードでアメリカ側の勝利と結んである。
 
この本が出版されるなり毀誉褒貶、
日米英間でたちまち話題となった。
アメリカやイギリスでは概ね肯定的意見が多かった中、
日本の反応はすさまじかった。
前作にも増して斬新な太平洋上の海軍戦略展開に胸躍らせた一方、
日本が敗者になる事に猛反発したのだ。
陸海軍のニュースをメインとする「国民新聞」は、
日本が負けると言う結末は極めて論理的でないと非難。
また二大紙の「朝日新聞」「東京日日新聞」も、
この書は挑発的であり、
日本を敗者と結論付けた点を「著者の愚かさを露呈した部分」と酷評している。
そのほか「二流のフィクションだ」「挑発的で有害な書物」
「アングロサクソンの自惚れに始終している」「あからさまな反日だ」と言う書評が相次いだ。
 
日本海軍山本五十六連合艦隊司令長官は1926年、
まだ彼が「大使館付海軍武官」だった当時ワシントンに駐在していた。
彼はアメリカ国内に溢れるヘクターの著書や新聞コラムを好んで読んだ。
と同時に、それらを報告書として纏めて東京へ送っていた。

そうした事実から見て山本がヘクターの理論に相当傾倒していたことは想像に難くない。
二年後日本へ戻った山本は、
ヘクターの説く日本の戦略を大幅に取り入れた講演を行っている。
更に1934 年のロンドン軍縮会議後の講演では、
もう一歩踏み込んだ具体的な内容になっていて、
十隻の空母と八百機の航空機によるハワイ攻撃構想を語っているのだ。

山本五十六長官はまだ彼が海軍中将だった頃二度ばかりヘクターと直接会って話をしている。
一度目は1930年 ロンドン軍縮会議の際、
二度目は1934 年12 月同じくロンドンの軍縮会議にて。
一度目はほんの立ち話程度だったが、
二度目はヘクターが山本長官のホテルを訪ねて二時間以上も会談している。
そしてこの2度目の会談の際、
前出の、
「十隻の空母と八百機の航空機によるハワイ攻撃構想」が話し合われたのではないだろうか、、。
想像の域を出ないが、そう考えることですべて辻褄があってくる!

こうした経緯いから考えても、
ヘクター・バイウォーターの説く戦法を大々的に取り入れて「真珠湾攻撃」を計画した山本五十六が、
その計画のソースであるヘクター及びメルビルが邪魔になって2人を抹殺した、、、
と考えるのが妥当のような気がする。
現にその説を採っている何人かのジャーナリストも存在するのだ。


益々面白くなってきた真珠湾攻撃の裏話だ!


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イギリス秘密情報部にいたことろのヘクター夫妻。


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July 25, 2015

黒船から真珠湾攻撃まで No. 2

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今日のアラモアナ・ビーチ。
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波は2~4フィート。
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さあ、泳ぐわよ~っ!
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おへそにダイアモンドかな?
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あたしには今日の波、大きすぎるのよ!
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グラサンはグッチかディオールか、、。
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しっかりカラー・コーディネートしてま~す!
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反対側から見ると、、、。
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若者よ、沖へ沖へと行くのだ!
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ハワイも真夏、もの凄い日差しです。
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砂場でのランニングが利くのよね~。
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彼、早く来ないかな~、、、。
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な、なんと言う出(い)で立ち、、、。
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健太ならさっきあっちの方へ行ったわよ!
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うーむ、こりゃ問題だぞ~!
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ダイアモンド・ヘッドとサーファー、絵になります、、。
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今ブログ「ジャック・インザ・ボックス」の照見(しょうけん)さんが来てるので、早速ジャック・インザ・ボックスへ!
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もちろん食べたのは「バタリー・ジャック」!
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「健太さん、これ最高に美味しいわね!」、、、。
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照見さんとの待ち合わせはここでした。


この3回にわたってハワイの伝説やアメリカの日系人、
真珠湾攻撃当時の世界情勢などについて少し書いてきた。
実はこれは今健太の書いている小説の一部を披露したものなのだ。
今年は終戦70周年記念、
果たしてあの戦争は一体何だったのかを、
健太なりに検証してみたかった。

そこでまず第一に、
なぜ日本は真珠湾攻撃などと言うとてつもない行動に出たのか、
その理由を知りたかった。
そして、
ハワイの日系人たちは果たして「真珠湾攻撃」を事前に察知していたのだろうか、
調べてみることにした。

ここに「真珠湾奇襲・ルーズベルトは知っていたか」(PHP文庫・今野勉著)と言う本がある。
この本に「1941年7月某日(真珠湾攻撃の5ヶ月前)のホノルル・アドバタイザー紙に、
真珠湾の地図を載せて、日本軍が奇襲してくると言う記事があった、、」
と記されている。
健太は先ずそこから調査することにした。
ハワイ大学にはハミルトンと言う図書館があって、
そこには過去のメージャー紙がマイクロ・フィルムに収められている。
早速ハワイ大学のハミルトン・図書館へ向かった健太。

行ってみるとハミルトン図書館には当時のハワイ日系紙の「日布時事」や「ハワイ報知」、
をはじめ日本の朝日新聞、
ハワイの英字紙の「スター・ブルテン」及び「ホノルルアドバタイザー」、
さらにニューヨークタイムスなどのマイクロフィルムがしっかり残されていた。
健太は即1941年のホノルル・アドバタイザー紙のフィルムを借り出してチェックしてみた。

しかし残念ながら1941年7月1日から31日まで隈なくチェックしてみたけど、
そのものずばりの記事は見当たらなかった。
ただ、
「When Japan Attacks、、、」と言う見出しで、
「Master of the ambush tactics of undeclared war, Japan struck in this four times in the last dicade.
Would she dare attempt this on Hawaii?」
上記のように、「日本の過去の戦法から考えると、
日本はアメリカのどこかを奇襲してくることは大いにある。それはハワイかも、、、」
と言う1941年7月7日の記事を見つけた。
この記事の存在でかなり確信が持てたことは、
少なくとも彼らは薄々何かを感じていた、、と言うことだ!

さて健太の調査はさらに進む。
1930年代後半からアメリカと日本の間かぎくしゃくし始めてから、
時のアメリカの大統領・ルーズベルトはじめ彼のキャビネットは、
今の状況では戦争は避けられないと覚悟していた。
そこで登場したのがアーサー・マッカラムと言う一人の男だ!


 アーサー・マッカラムはキリスト教宣教師の両親の間に長崎で生まれた。
少年時代日本で過ごし日本文化に通じ、英語より日本語が先に出てくる。
近所の子供たちからは「マック」と親しまれて、
アメリカ人独特の目鼻立ちのはっきりしたそのハンサムな顔立ちは、
町の女学生からも人気があった。

父親の死後、マッカラムはアラバマ州に帰り、
海軍兵学校に入学。
大きな体に擢んでた運動神経を持つ彼は成績もトップクラス、
卒業後海軍少尉に任官する。

1923年関東大震災が起きた時の事だ。
その被害は甚大で、アメリカは海軍を通じて援助をすることになり、
マッカラムがその援助活動の調整を任された。
自分の生まれた国日本、
まさに第二の故郷のために役立てる。
マッカラムはアメリカ政府にも働きかけて最大限の援助を引き出し、
勇んで日本へ向かった。

しかし、そうしたマッカラムや米国の心からの行為を、
日本側は固辞したのだ。
それは代々その国に伝わっている「遠慮」と言う美徳、独特の文化であったが、
さすがの日本通マッカラムですらそこまでは理解できなかった。
〈尊大で自負心の強い日本人は、「異人の援助!」と快く思っていない!〉
マッカラムは面子を潰された思いで強い怒りを覚えた。
〈いつか痛い目に会わせてやる!〉
マッカラムはそれ以来日本を逆恨みし始める。
そしてその彼の逆恨みこそが、
日本がアメリカに戦争を仕掛けるきっかけを作ったと知る者は、
本人以外誰がいただろうか。

 その後17年、
マッカラムは太平洋を支配しようとする日本の政策にアメリカを巻き込むことで、
あの時の恨みを充分に晴らすことが出来そうな仕事を引き受けることになる。
1940年夏のアメリカの世論調査では、
国民の大多数がヨーロッパや日本との戦争に巻き込まれることに反対していた。
しかしルーズベルト大統領及び周辺指導者たちは、
「今の世界情勢は既に安全保障上アメリカの驚異となっている」と意見が一致していた。
 
そこで彼らはアメリカが行動に移す、つまり戦争を始めるきっかけ、
大義名分が必要だと論じた。
マッカラムはそのきっかけを作る計画のメイン・メンバーの一人だった。
海軍情報部極東課に勤務する彼の任務は差し当たって、
通信傍受施設HYPO(真珠湾)・H(カネオヘ)・FIVE(フォートシェフター)・SAIL(シアトル)CAST(コレヒドール)ITEM(サンディエゴ)から集まる解読された日本の軍事外交報告暗号文を検閲し、
逐次ルーズベルト大統領に諜報報告書として提出する事だった。

当時アメリカ政府や軍部の中で、
日本の活動や意図についてマッカラムほど知識を持ったものはなかった。
そして彼は、「日本との戦争は不可避で、我々にとって都合のよい時に、
日本側から仕掛けてくるように挑発すべきだ」と一貫して主張し続けた。
ルーズベルト大統領にとって一番危険なことは、
国民の後押しのない戦争を始めてしまう事だったからだ。
 〈降りかかる火の粉は払わねばならない〉
そう国民に思わせる方法を考えなければならない。

1940年10月にマッカラムは、
日本が対米戦争を仕掛けてくるようにと、
仰天すべき計画、八項目の覚書を会議に提出した。

1.太平洋の英軍基地シンガポールの使用について英国と協定の締結。
2.蘭領東インド(インドネシア)内の基地施設の使用及び補給物資のオランダとの協定締結。
3.中国蒋介石政権に、あらゆる援助の提供。
4.遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個船体を、フィリピンまたはシンガポールに派遣
  する。
5.潜水艦二隊を極東へ派遣する。
6.現在ハワイ諸島にいる米艦隊主力を維持する。
7.日本の不当な経済的要求、石油に関するオランダへの要求を拒否するように主張する。
8.英国が日本に対して押し付ける通商禁止と同調して、日本との全面通商を禁止する。

つまり、
「アメリカは、現在日本が行っている対外政策を一切認めないぞ!」と言う、
これらの日本に対する徹底した挑発項目を実行に移せば、
間違いなく日本はアメリカに戦争を仕掛けてくる!
マッカラムは絶大な自信をもってこれをルーズベルト大統領に提出した。
 
ルーズベルトはこの八項目を最も信頼していた軍事顧問、
ウォルター・アンダーソン海軍大佐とダドリ・ノックス陸軍大佐に送り、
翌日から組織的にそれを実行させた。

この中で最も衝撃的な戦争挑発項目は第四項目であった。
「我々の巡洋艦を日本海域のあちこちに飛び出させて、
ジャップに疑念を与えるようにしたい。
そのためには巡洋艦の一隻や二隻失うことはいとわない」
ルーズベルト大統領はこの挑発行動を「ポップアップ作戦」と呼び、そう嘯いた。
 
1941年3月から7月にかけて、
ルーズベルト大統領はそうしたポップアップ巡洋艦三隻を日本海域に派遣した。
その中で最も挑発的なものの一つは瀬戸内海への主要接近水路である豊後水道(九州・大分県と四国・愛媛県の海峡)への出撃だ。
それを発見した日本軍は米国に対して厳重な抗議を行った。
危うく一発触発、
と言うところで米艦は煙幕に隠れて南方へと逃れて行ったのだ。
この事実を見ても日本への挑発行為は見事に功を奏している。
「最初の一撃はジャップにやらせろ!」
その真意を知らない日本側は、
ルーズベルト大統領の挑発計画に次々と反応して行くのだった。

 
ここまで読んでも、調べが進むにつれどんどん深みにはまって行く健太の様子が分かるよね、、(笑)!

Photo
ここをまっすぐ行くとハミルトン図書館がある!
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「戦争挑発8項目」を発案したアーサー・マッカラム少佐。

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July 22, 2015

黒船から真珠湾攻撃まで、、

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今日午後のアラモアナビーチ!
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ボード重そうですねぇ、、。
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一瞬おっぱいが見えてるのかと思っちゃった、、(汗)。
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今日の波は1~3フィートだそうです!
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気持ちよさそうに焼いてるなあ、、。
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一人男の人がいるんだね、、。
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こんなに焼けてから塗ったんじゃ遅いわよ!
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あんまり明るくて画面が見えないわ!
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ロコ・ギョール・サーファー!
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綺麗に焼けてますね~、、。
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奥様、波打ち際に近すぎませんか?
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ボードとウェットスーツの色を合わせてみました!
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今日の「ドカ~ン!」。
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キオツケ~ッ!
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スマホに夢中で、そばで溺れてる人がいても気が付かないのだ!

 黒船の江戸湾来港後なかば強引に開国させられた日本。
しかしその後の日本の発展には目に見張るものがあった。
当初、熱心に欧米の文明を摂取して急成長してゆく日本の姿を見た列強諸国は、
「優等生の成長」と目を細めていたが、
やがてそれは警戒の眼差しに変わって行った。
 
先ず、日清戦争に勝利を収めた日本に、
ドイツの皇帝ウィルヘルム二世はその行く末に強い危惧を抱き、
「イエローペリル(黄渦論)」(ドイツ語ではGelbe Gefahr)を唱えた。
いわゆる黄色人種脅威論だ(この時の黄色人種は日本人を指している)。
その後日本は日露戦争に勝利し中国へ進出、_
さらに東南アジアにまでも手を伸ばしてゆくその姿に、
ヨーロッパの政治家たちは挙って「イエローペリル(黄渦論)」に同調していった。
 
明治元年(1868年)以来日本はハワイに移民を送り出し、
1897年にはアメリカ本土への移民も始まった。
年に8000人にも及ぶ日本人が移民として海を渡っていった。
そうした中、「イエローペリル」は米国内にも蔓延し始めた。
アメリカがハワイをテレトリーとした1900年には、
日本人移民排斥がハワイで起こり、
カリフォルニアでも排日運動が起きた。
更に1906年、
サンフランシスコ議会では日本人学童を白人学童から隔離する法案が可決した。

*日本人は職業上の価値を無視して、長時間働き白人労働者を圧迫する。
*日本人は生活程度が低劣で、米国人と共同社会を作ることができない。
*日本人は故国に送金し米国経済に貢献しない。
*日本人は日用品を故国から取り寄せ、米国製品を使用しない。
*日本人は愛国心が強く、政治道徳は米国人と一致しない。
*日本人の持つ文化は米国に悪影響を与える。
*日本人は密集して、自国の風俗習慣を改めようとしない。
*米国は米国人の米国であり、ジャップを排除すべし。
*日本人の入国は人種問題を悪化させる。
 
こうした彼らの主張は、
米国における日系移民たちの繁栄に対する妬みが大きな要因になっていることは確かだ。
 
1907年、安孫子久太郎はリビングストン近辺の土地2000エーカーを購入、
大和コロニーなる開拓村を創設した。
入植者はパイオニアとして荒地を切り開き砂地を改良、
見事な耕地とした事で近隣の白人たちから絶賛された。
また生田見寿は、
サクラメント下流地帯の稲は丈や葉のみが伸びて米が実り難かったため、
日本の早稲の種もみを輸入栽培、見事にカリフォルニア米を定着させた。
さらに「ひな」の性別鑑定だ。
日本人の持つ技術では、孵化後間もなくひなの雌雄を選別できたので、
業者は卵を産む雌だけを選んで育てることができた。
この技術を身に着けた日本人一世二世は鶏卵産出地帯で引く手数多だった。
 
一方漁業に於いても、
近藤政治はカリフォルニア半島で伊勢海老やアワビ、マグロを漁獲し、
マグロ漁では日本独特の漁法を用いた。
それは従来のアメリカ漁法より効率が良かったため、
やがてアメリカのマグロ漁に大きな技術革新をもたらすことにもなったのだ。
このような米国内に於ける日系人の活躍には目を見張るものがあった。
 
しかしそうした日本人の繁栄に危機感を募らせたアメリカ政府は1913年、
カリフォルニアの第一次排日土地法で日本人の土地所有を禁止、
借地権も三か月に制限した。
そこで日本人たちは、
アメリカ生まれの市民権を持つ自分たちの子供の名義での土地所有を試みた。
だがそうした苦肉の策も1920年第二次排日土地法案が可決されると、
アメリカ市民である日本人の子供たちでさえも、
土地所有及び借地権が認められなくなってしまった。

因みに、1920年のカリフォルニア州農地管理委員会の報告では、
日本人所有土地面積は7万4769エーカー、借地面積は38万3287エーカーとなっている。
ハワイの日系人とアメリカ本土の日系人とは共通点はあるものの、
明らかな相違もあった。砂糖黍畑の労働者として日本人が移民した当初、
ハワイはまだ米国ではなく独立国だったからだ。
しかし間違いなく「イエローペリル」はハワイにも迫っていた。
砂糖黍畑の日本人耕地労働者たちは、
想像を絶する劣悪な労働条件を強いられていたのだ。

彼らは朝まだ星が出ているうちに起床して、
小さな容器に弁当を詰めて袋に入れ、ホー(鍬)を担いで家を出た。
朝6時には仕事を始めて、
日中は炎天下で10時間の重労働を強いられ、
時にはルナ(監督)の鞭を受け、身も心もズタズタにされながら懸命に働いた。
それでも僅か1日75セントと言う雀の涙の給料。
その頃のアメリカ本土・シアトル港湾労働者の未熟工ですら1日5ドル25セント、
サンフランシスコ沖合労働者が8ドル80セントだった事から、
その賃金の低さには開いた口が塞がらない。
これが「イエローペリル黄渦」(=ジャパニーズ・バッシング)以外の何だと言うのだ。
因みに、当時の調査では1月にかかる最低生活費は、独身者で34ドル。
夫婦に2人の子供の家族になると75ドル必要だった。
1919年、耕地労働者たちは『ハワイ耕主組合』に賃上げ要求を出した。
男子労働者の一日最低賃金を、75セントから1ドル25セントに、
そして女子労働者の賃金は95セントに。
しかしそれすらなかなか受け入れられなかったのだ。


こうした背景も、
日本を真珠湾攻撃へと舵を切らせた大きな要因になっていることは確かだ。


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